美容整形、美容外科は名古屋市中区栄のAMORE CLINIC(アモーレクリニック)へ。

Interview

高田笑多様

高田笑多わらた

生まれたときの性別は「女」でしたが、
今は「男」として、日常を過ごしています。

専門用語で言えば、FTMというやつです。私が10代くらいの頃は、そんなおしゃれな呼び方もなく。MTFは「おかま」、FTMは「おなべ」、と呼ばれていました。でも私たちのような人種の存在をあまりわかってない人に「僕おなべなんです。」と言っても「は?なにそれ」と、わかってもらえないときは「おかまちゃんの逆バージョンみたいなもんですわ」と言えば、なんとなく理解してもらえるくらい「おなべ」という言葉はあまり世間に浸透していなかったですね。

昔は私のような性別違和があり、女なのに女性が好きな人間なんてこの世で自分しかいない、本当に大好きな人と恋人同士になることも、ましてや結婚なんて、絶対にできない・・・。だからずーっと一人なんだ。と、なにもかもを諦めて、こんなふうに生まれてしまったことに絶望していた時期もありました。

そんな私でしたが、GID治療を始めて、身体が男性化し、社会生活も男性として過ごし、男として女性との恋愛もでき、今では女性の方と結婚もして、過去の、人生に絶望していたころの自分が想像もついていないような未来に生きています。いま現在、自身の性別違和や、性志向に悩み苦しんでいる人の気持ちが少しでも救われればと思い、これまでの私の人生談を書いていこうと思います。

ものごころがついたであろう年齢から、
私は自分の性別に違和感しかありませんでした。

スカートを履くことを極端に嫌い。欲しがる子ども服や靴などは必ず男の子が着る服、履く靴でした。小学校入学のときは、赤いランドセルがイヤで大泣きしたこともありました。母親の「ほら!あんたが好きなゴレンジャーレッドの赤だよ!リーダーの赤だよ!かっこいいよ!」と言われて、まぁ、それなら・・・と、腑に落ちないながらも無理くり納得したような記憶があります。

しかしやはり赤ランドセルは女子の色みたいなもんだったので、高学年になった頃にはナップサックという布製の袋のようなリュックで通っていました。私は覚えていないのですが4つ上の姉から聞いた話しでは、幼いころの私に「自分のちんちんは、いつ生えてくるのだ?」と聞かれ、「は・・・生えてこないよ・・・?」と伝えたら「なんでだ!?」と憤慨していたと聞きました。
あと立ち小便に挑戦して失敗してズボンをビタビタにして憤慨しながら帰ってきたこともあったと聞きました。今思えばちょっとアホな子だったんだと思います。

私の女性だったころの名前は「○○子」と、THE女子!みたいな名前で、自分の名前がすごく嫌いでした。「ヒカル」とか、中性的な名前の子がすごく羨ましかったです。中学生の頃はセーラー服がものすごくイヤで、男子の着ている学ランが羨ましくて仕方なかったです。それこそ中学時代のセーラー服なんて、入学式のときと卒業式のとき以外はいくら教師に注意されてもかたくなに着ず、ジャージで過ごしていました。とても迷惑をかけてしまっていたな、と、今になって反省しております。

10代の思春期まっただなかの時は、身体が女性化していくことに耐えられなくなり、精神が壊れ。不眠症&過眠症を繰り返し、食事も満足に取れなくなり、心配した両親が精神科の病院に連れて行ってくれたりもしたのですが、私の性別違和という状態を悟られたくなくて、精神科の医師にも嘘をついたりしてなんとかバレないように努めていました。そんな状態だったので中学校二年生のときは学校にもほとんど行けず、不登校ぎみになっていました。

精神が壊れていたころの記憶がじつはあまり覚えていないのですが、母いわく「ずーっと部屋にこもっていて、フラっと起きてきたかと思えばアイスを一個だけ食べてまた部屋にフラっと戻っていってて、死んじゃうんじゃないかってたまにこそっと様子を見に行っていた。」と言っていました。

寝て起きたら男になっていたらいいのに、と思いながら眠りについたことも数えきれないほど何度もありました。女性なのに女扱いされること、女らしくすることが苦痛でしかたのない「自分」は、この世でたった一人だけなのかとすごく不安になって、この悩みを打ち明けることが出来る人もいなくて、とても寂しく、苦しかったです。

そんなときに眠れなくて見ていた深夜のテレビ番組で【オナベBAR】の特集がやっていて、自分はこれなんだと!『オナベ』という人種なんだとわかって、とても安心した記憶があります。それからは精神も安定していき、20代になったころには私も【オナベBAR】で働き、私と似たような境遇で生きていた友人もできました。GID診療をしてくれる病院を紹介してもらい、「性同一性障害」と診断を受けて、本当の性別になる治療をしましょう、と言われとても嬉しかったです。

治療を始める前の不安は
本当になかったです。

本来の自分になれることへの希望しかなかったです。ホルモン治療をするうえでのデメリットも、この先偽りの女としての性で生きていく苦痛に比べれば、本当にたいしたことではないと私は思っていたので。実際にホルモン治療を始めたばかりのころは、ニキビがとにかくひどかったです。
私は顔と背中にひどめのニキビが出ていましたが、身体が男性ホルモンになじんでいくのか、徐々になくなっていきました。

今現在出ている副作用は、頭の薄毛化と物忘れです。でも、薄毛化は本当に人それぞれで私のFTMの友人で薄くなってしまった人はそんなに多くはいないです。物忘れも、ひどい時期とそうでもない時期とあって日常生活に支障をきたすレベルではないです。加齢による物忘れとそんなに変わりないと思っています。

今現在はSRS(子宮全摘出手術)をして、ホルモン注射(エナルモンデポー125mg)を月一回のペースで打っています。SRSをする前は2週間に一回のペースでホルモン注射を打っていました。見た目が完全に男性化したら、本当に生きやすくなりました。

初めてお会いする方には男性として自然に接してもらえるようになったことも、いまでは当たり前のことで慣れてしまいましたが、最初はとても嬉しかったです。しかし、元の性別を知っている、自身の性別違和感のない人間、いわゆるノンケと言われる友人や職場の人には、「男になったんだから」みたいな感覚で、必要以上の男らしさを押し付けられてしまうことも多々あります。

悪気も悪意もないことはわかるので、気にしないようにしています。ワタシの友人には、職場などで出会い、好意を寄せてくれる女性がいて自分も好きなんだけど、元女性である、ということを知らない人だから、自分が元女性であると伝えた瞬間に離れていかれるのが怖くて言えない、と悩んでいる人もいます。
女性であったときは、自分は本当は女性ではない、という気持ちを隠し、見た目が男性になれたとしても、元は女性だったという事実を隠し、社会と生きていかなければならない。

しかし、そんな社会も先人のGID当事者や理解者の人たちが声を上げ続けてくれたおかげで変わりつつあると思っています。私自身も、家族にカミングアウトをするときは怖くてしかたなく、直接顔を見ては言えなかったので手紙で伝えたのですが「知っていた。なんならいつ言ってくれるのか待っていた。」と笑われてしまい、とても深刻に考えすぎていたのは自分だけだったと気づき、私も笑ってしまいました。私の家族が特殊なだけかもしれません。

カミングアウトをしたことによって終わってしまう縁もあるかもしれません。私の友人のなかにはカミングアウトをしたことで家族に絶縁されてしまったが、自分らしく生きることを選んでいたら家族との仲も徐々に良くなっていったという人もいます。カミングアウトを絶対にすべきとは思っていないので、カミングアウトをせずに過ごす生活を選択するのもありだと思います。

昔は私が本当は女性ではない、という性別違和があることを誰にも知られたくないがために、親しい友人もできず、家族とも距離を置き、打ち明けられない悩みを一人で抱えこんでふさぎ込んでいました。ひとりぼっちでした。
でも今は、同じような境遇を生きてきた友人や、私を通してGIDを理解したいと思ってくれたノンケの友人や、ただあなたといると楽しい!と一緒にバカやってくれる友人などに恵まれ、本当に毎日が楽しくてしかたないです。

心無い言葉を言われてしまうときもありますが、そんなときは、あなたはあなた、私は私。の気持ちで乗り切っています!自分らしく生きるのは、とっても楽しいですよ。最後までこんなつたない文章をお読みくださり感謝します。

年齢 39歳
生まれ 山と田んぼしかないど田舎です
現在の居住地 名古屋市
治療履歴 ホルモン療法歴15年、令和4年の8月にSRS(子宮全摘術手術)をしました。
胸オペはまだやっておりません。
職業 自動車の鈑金塗装工をしながらwebライターのお仕事もちょいちょい
やらせていただいてます。文章力勉強中です。
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